全国勝手連連合会・国際交流勝手連の光永勇会長は、国際機関日本アセアンセンター、駐日ミャンマー連邦大使館が主催する投資環境視察ミッションに参加、 一六日から二十二日までミャンマーを訪問しました。現地では、日本人戦没者墓地・慰霊碑を訪問して祈りを捧げたほか、 日本貿易振興機構(JETRO)によるブリーフィング、ミャンマー商工会議所との会食、ミンガラドン工業団地によるブリーフィング、日系工場視察 (縫製)、ヤンゴン日本人商工会議所(JCCY)との懇親会、ミャンマー政府機関との会合(国家計画・経済開発省、ミャンマー投資委員会商業省、第一工業省、森林省)、 食品流通現場視察、日系工場視察 (医療器具)、現地工場視察 (縫製)、現地工場視察 (電機・機械)等の公務を執り行った

ミャンマー連邦、通称ミャンマーは、東南アジアに位置する共和制国家。一九八九年までの名称はビルマだった。 インドシナ半島西部に位置し、北東に中華人民共和国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと国境を接する。 首都はネピドー(旧首都はヤンゴン)である。ミャンマーは北緯一〇度から二十八度の間に位置し、南北に伸びる長い国土が特徴である。 陸では中国・タイ・ラオス・インド・バングラデシュと国境を接し、境界線の総延長距離は約四千六百kmに達する。 海側はマルタバン湾・ベンガル湾・インド洋と面しており、海岸線の全長は約二千kmである。国土の大半が熱帯又は亜熱帯に属するが、 気温や降水量は地域による差異が大きい。国土の中央をエーヤワディー川が縦断しており、河口付近は広大なデルタ地帯を形成している。 主要な河川としては他にサルウィン川やチンドウィン川等がある。
主要農産物は米で、農地の六十%を水田が占める。国際米作研究所が一九六六年から三十年間に亘り、五十二種の米を全土で試験栽培し、収量向上に貢献した。 また、宝石の産出量も多く、世界のルビーの九割を産出している。サファイアとも品質の高さで知られる。 ビルマはかつて東南アジア有数の大国であり、イギリス統治下においても東南アジアで最も豊かな地域のひとつであった。 コメの世界最大輸出国であり、チークなど木材をはじめ天然資源が豊富で、石油生産・輸出も盛んに行われていた。 投資をしている国は中国、シンガポール、韓国、インド、タイなどである。特に中国はミャンマーから原油とガスを輸入するためのパイプラインを建設しようとしている。 会長が今回ミャンマーを訪問した理由のひとつは、米・木材等の豊富な資源を日本へ輸入することが目的であり、ミャンマー政府関係者の熱烈な歓迎を受けた。
日本とミャンマーとは、関係が深い。ミャンマーは一八二四年に始まった英緬戦争の結果、一八八六年にイギリスの植民地としてイギリス領インド帝国の一州に編入された。 ミャンマー人は岩塩の採取を禁じられ、英緬製塩会社の高い製品を買わされていたし、白紙を売買することを禁じられていた。
そのような状況の中、小国日本が、超大国ロシアに、日露戦争に勝ったことに感動し、一九〇七年(明治四〇)、来日して全国を巡行したウ・オッタマ僧正という僧侶がいた。 日本に行き、そしてその得た結論を『日本』という著書に集約した。 この著書が、独立を志向するビルマ青年のバイブルとなり、一九三〇年に「タキン党」(われらビルマ人党)が、結成された。 「タキン党」で学生運動のリーダーとして活躍したのがアウン・サンやウ・ヌーらである。
一九四一年日本と協力してミャンマー独立を目指すアウン・サンら若者は船員に変装して、ビルマ米輸送の日本貨物船でラングーンへ向かい、 第一陣のビルマ青年四名の脱出を成功させた。 以後六月までの間に、海路及び陸路を通じて脱出したビルマ青年は30名に達した。この三〇名が、後にビルマ独立の伝説に語られることになる「三〇人の同志」である。 四月初旬、海南島三亜の海軍基地の一角に特別訓練所が開設され、ミャンマー青年が順次送り込まれて過酷な軍事訓練が開始された。 ミャンマー青年たちのリーダーはアウン・サンが務めた。ビルマ独立義勇軍は、翌年には翌年二月には五〇〇〇名にまで増員し、 日本軍と共に、ミャンマーを支配する英国軍と戦い、ミャンマーの独立を実現したのである。 第二次世界大戦では、ミャンマー方面作戦に参加した三〇万三五〇一名の日本軍将兵のうち、六割以上にあたる一八万五一四九名が戦没し、 帰還者は一一万八三五二名のみであった。一九四三年八月一日、ビルマはバー・モウを首班として独立宣言をし、 BDAはBurma National Army, BNA(ビルマ国民軍、ないしビルマ国軍)と改名した。 アウン・サンが国防大臣に就任したため、BNAの司令官にはネ・ウィンが任命された。一九四八年一月四日、ビルマはウ・ヌーを首班として独立を達成した。 外相ウー・ヌー「歴史は高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例を、 ひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上初めてこの歴史的役割を果たすべく運命付けられているかに見える」 バー・モウ「ビルマの夜明け」(一九六八年英国で発刊 一九七三年(昭和四八年)日本でも翻訳)「真実のビルマ独立宣言は、一九四八年一月四日ではなく、 一九四三年八月一日に行われたのであって、真実のビルマ解放者は、アトリー氏とその率いる労働党政府でなく、東條大将と大日本帝国政府であった」 「もし日本が武断派的独断と自惚れを退けて、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、 いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否過半数の人々からの信頼と感謝とを、日本から奪い去ることはできなかったであろう。 日本のために惜しむのである」「そうは言っても、最終的には日本が無数の植民地の人々の解放に果たした役割は、いかなることをもってしても抹消することはできないのである」 戦後の昭和五六年(一九八一年)、ビルマ政府は独立に関与した鈴木大佐をはじめ7人の日本人にビルマ最高の栄誉「オン・サン賞」を授与し、最高の敬意を表しています。
今の日本で、ミャンマーを語るときに、大勢の日本人が命を落とした歴史をあまり意識することはない。しかしながら、大勢の日本人がミャンマー人と共に戦い、 欧米の植民地支配を打破したことは紛れもない事実である。そして、会長としては、その歴史に思いをはせ、故郷よりはるか遠くで犠牲になった戦没者の英霊に対して、 尊敬の念を持ってお祈りしたのである。時代は変わり、ミャンマーと日本との新しい未来志向の関係が求められている。 全国勝手連連合会・国際交流勝手連としても、さらにミャンマーとの経済・文化交流を通して、友好の輪を広げてゆくものである。

販売店に陳列されるアンテナの様子

衣服の生産工場の様子

アンテナを製造している工場の様子

梱包され出荷を待つアンテナ

米・三十種類程度の米が販売されていてどれも美味

釈迦が入滅する時の様子を表した涅槃仏

仏教徒が多いミャンマーは宗教は日本とにている。

ミャンマーで生産された工業製品

衣服の生産工場の様子