今なぜ勝手連なのか

日本は戦後、まがりなりにも民主主義という、とりあえず今考えられる一番理想的な政治体制をとってきたはずだ。 当然違う考えもあるのだろうが、独裁体制や専制君主制、社会主義体制よりはましなものとして、世界の多くの人々は民主主義をとらえている。 少なくとも民主主義とは、「民」が「主」となるはずの政治制度である。 ただし、日本が選んだ民主主義は「代議制民主主義」、これが曲者なのである。自分たちが選んだ代表が、我々に代わって議論し政治を行う。 あくまでも「民」が「主」であるはずなのに、主人の気分を味わえるのはほとんど選挙の時だけ。 残りの数年間は政治的にはまったく無カな存在として、我々の代表だったはずの連中が行うことを、黙って見ているしかない。まさに、「うっかり一票、後悔四年」となるわけである。 さらに選挙といっても自分が持つ投票権は一票だけしかない。そこで次のように考える人が出てきてもおかしくない。

「どう見ても自分よりレベルが低い他の奴でも、同じ一票を持っているのか。どんなに大金持ちでも、 どんなに学歴が高くノーベル賞をもらうような大先生でも、一票は一票でしかない。何とも不愉快なシステムだ、 それならいっそ選挙になどは行かずに、有象無象が投票した結果を、高みの見物で笑っておこう」まさに現在の日本は、こうした「観客民主主義」に陥っているのではないだろうか。

42,45,48,38,39。いったいこの数字を何だと思われるだろうか。実は2001年10月28日に行われた、選挙の投票率である。 順に衆議院宮城四区補欠選挙、衆議院滋賀二区補欠選挙、神戸市長選、長野市長選である。この2つの補欠選挙の結果、自民党は単独で過半数を確保することになった。 しかしそれにしても、である。国政の重責を担う代議士を選ぶ選挙で、たとえ補欠選挙とはいえ、投票率は5割にも満たず、県庁所在地の神戸・長野の市長選では4割を切る。

我々勝手連が興味を持ち、現地にも入って情報収集した神戸市長選では、結局自公保に民主、社民が加わって四党の推薦を受けた空港建設推進派の前助役が当選したのだが、 その得票率は四割弱。つまり有権者の20%弱の人たちが投票しただけで、結果として神戸空港は建設されることになったのである。 反対票を投じた同じ20%の民意は無視され、何の意志表示もなかった60%の住民は、白紙で委任状を与えたに等しい。空港の是非はここでは問わないが、 現在神戸市の予算は8500億円ほど、これまでの市債発行残高は1兆5000億円である。収入の2倍近い惜金をして公共事業にまい進する、 日本が陥っている病弊の縮図を見る思いがするのは、僕だけであろうか。

それにしても、とあらためて思う。このあまりに低い投票率はいったいどうしたことなのだろうか。本当にこれで民主主義は成り立っているのであろうか。 2割の意志で行政のトップや政治家が選ばれるということは、その2割に利益を分配してさえいれば、選挙は大丈夫ということになる。 後の8割はちょっとだけおこぼれにあずからせておけばいいという算段なのか。

だとすれば、現在日本にしつかりと根を張っている「税金山分けシステム」、つまり利益分配政治を認めてきたのは、 我々国民自身なのだ。公共事業などを中心にして税金をばらまくこと、その見返りとして大量のまとまった票が手に入る、 これが戦後半世紀をかけて構築された日本的システムである。そのシステムにしっかりと食い込み、既得権を有する一部の束になった票の国民と、 かろうじて与えられるそのおこぼれに満足して、政治に無関心でバラバラの票を持つ多くの国民。そうした構造を変えない限り、我々が考える個人の自立、 個人の幸せはこの国には訪れないと思っている。

日本は司法.立法.行政の3権がそれぞれ独立した権限を持ち、他からの干渉を受けない、三権分立の社会制度を取っていると学校では習うはずである。 それに最近では新聞、テレビなどのマスコミを第四の権力といったりもする。しかし、一般の国民がこうした権カに直接タッチする方法は限られている。 たとえ市役所に不愉快な態度の職員がいたとしても、犯罪を犯さない限りクビになることはないし、ましてや市民がその職員をクビにすることなどありえない。 これは裁判官でも同様だし、マスコミに勤めている社員を一般市民がクビにするなど・なおさら無理である。

ところが、立法、つまり政治家に対しては、我々の意志を反映させることも十分に可能なのである。 そう、我々には選挙という最大、最強の武器があるのだ。逆にいえば我々ができることは、選挙しかないのである。

もちろん、地方では知事や市町村長・議員に対するリコールという方法も残されている。しかし、国会議員についてはそうした制度はない。 どうしてもダメだと思う議員は次の選挙で落選させる以外に方法がないのが実情である。

行政を変え、そこに住む役人たちの意識を変えるのも、政治家次第。それも選挙ではじめて可能になる。 すべての日本社会の基本は選挙から始まっているといってもおかしくはないのである。